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魔女のブログ

刀剣たくさん! 根津美術館「江戸のダンディズム」を観ました

そういえば英国と魔法の話しかしていなかったので、趣味の美術館巡りの話でもはさむことにしましょう。

刀と拵の超絶技巧に酔う

根津美術館で5/30(日)~7/20(月・祝)まで開催中の「江戸のダンディズム 刀から印籠まで」を見てきました。

今回はコレクション展ですが、刀剣・刀装具・印籠という三つのジャンルの工芸品から、江戸の男性たちの持つ美意識に光を当てる展覧会です。

 

DMMのオンラインゲーム「刀剣乱舞」のリリース以来、全国の美術館・博物館は空前の刀剣ブーム! 江戸東京博物館で開催された「大関ヶ原展」や、各地で行われている特別展示などをきっかけに、刀の世界に興味を持たれている審神者の皆さんも多いのではないでしょうか。刀のみならず、刀を飾る刀装具の世界にもスポットが当てられているこの展覧会は、刀剣の世界にどっぷり浸るにはぴったりだといえるでしょう。

 

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フライヤーもハイセンスですね。男性が手に持っているのは「鏡勾玉蒔絵脇指拵」。天狗の面や榊といった神道のモチーフが随所にちりばめられています。

 

さて、展覧会のテーマになっている、江戸の武士の刀剣事情とはいかなるものだったのでしょうか。

 

江戸はネットワーク (平凡社ライブラリー)

江戸はネットワーク (平凡社ライブラリー)

 

 

戦国の世が終わり、太平の世となってからも、武士階級は刀を携行します。そのため武器として用いられる機会が減っても、刀鍛冶の需要がなくなるということは、基本的にありませんでした。この点は鉄砲との大きな違いだといえます。

とはいえ、江戸時代の刀剣は、武器としての実用性よりもむしろ男性のファッションの一部、装飾品としての美的価値が重んじられていました。ですから、このころに打たれた刀は古様をまねたり、新しい刃文(濤乱刃など)を開発したりしながら、繊細で流麗な作風をきわめています。龍などの彫り物がなされたものも非常に多く、概して「見られる」ことに重きを置いた作りだと言えます。

そして江戸期から明治期にかけておおいに発展したのが、鍔や鞘などの刀装です。いうなれば刀に着せる衣装のようなもので、基本的に持ち主の好みにあわせてあつらえます。鞘は木に漆を塗って作るため漆工、鍔などの刀装具には金工の技術が必要で、さらに目貫(鞘と刀身をつなぐ釘)・小柄(刀に付属する小刀)・笄(こうがい・髪を整える道具)といった小物には、彫金の技術が必要とされます。

ほんの数センチしかない大きさの目貫にすら、十二支や孔子を彫らせて愛でる上流階級の武士たちのセンスには驚かされます。着物や髪型といったわかりやすい部分にではなく、ちらりと見える小物に本物の美を凝縮させる……こうした江戸の男性の「いき」な態度は、「印籠」に込めた情熱にもはっきり表れています。

「いき」の構造 他二篇 (岩波文庫)

「いき」の構造 他二篇 (岩波文庫)

 

 

刀装具や印籠は江戸美術の重要な一分野を担うに至り、漆芸・金工・彫金すべての分野が、技法・デザイン双方において研ぎ澄まされていきました。そして300年の時を経て幕末に登場したのが、金工の加納夏雄・彫金の海野勝珉・漆芸の柴田是真……という三人の天才です。明治の鉄道王であり、根津コレクションを築いた初代・根津嘉一郎は、かれらの作品を熱心にコレクションしています。

 

刀に沿うように揺れる、鞘の稲穂や早蕨の曲線美には、ただただ酔いしれるほかありません。鍔や印籠、三所物(目貫・小柄・笄の三点セットのこと)をルーペでよく見れば、戦いとは遠く隔たった小宇宙が広がっています。

江戸人が極限まで追い求めた美のかたち、ぜひ生で堪能してみてください。

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お庭もとてもきれいでした。根津美術館はいつ来ても楽しいですね。

 

『忘れられた巨人』を読みました。

今日の話題はカズオ・イシグロの新刊『忘れられた巨人』(原題:"The Buried Giant")です。ネタバレは極力避けつつの感想です。

カズオ・イシグロといえば現代劇を得意とする作家のようなイメージが先行しますが、本作はさにあらず。6~7世紀の中世初期のイングランドが舞台で、しかもドラゴンや魔法が何の説明もなく登場してきます。ジャンルとしては、ファンタジーに位置付けられるでしょう。 

忘れられた巨人

忘れられた巨人

 

 

しかし、作者が物語の主軸に置いているものは、いままでの作品と通底しています。「ジャンル小説」という枠組みを巧妙に利用しながら、きわめて現代的な心情をえぐりだし、美しい人間劇を紡ぎあげるという点は、近未来を舞台にしたSFの『わたしを離さないで』と共通しているでしょう。作者の特徴である細密な人間描写と、「終りゆくもの」への愛情あふれる態度は、今作ではさらに研ぎ澄まされています。

わたしを離さないで (ハヤカワepi文庫)

わたしを離さないで (ハヤカワepi文庫)

 

とはいえ『忘れられた巨人』がファンタジーであることの意味は、決して軽いものではないと私は思っています。悪鬼やドラゴンが飛び出すブリテン島を包み込む、大きな秘密が明かされる終盤で、文章からは並々ならぬ気迫と、「この作品がファンタジーであること」に対する決意が漂ってくるのです。

それを論じる前に、ひとまずあらすじをご紹介しましょう。

 

あらすじ:

小さな村で若干疎外されながら暮らしている、アクセルとベアトリスの老夫婦は、長年会っていない息子に出会うため旅に出ることにする。荒野や森をいくつも越えるなかで、サクソン人の若き戦士や、アーサー王の命を受けて旅する老騎士、悪鬼にさらわれた奇妙な少年などに出会う。人々に会う中でふたりの持つ記憶はだんだんと揺らぎ、旅路は深い霧にかき乱される。はたして二人は息子のもとへたどり着けるのか?

老夫婦とともに時間を過ごす

旅と戦いが中心を占める壮大なストーリーですが、主人公の老夫婦を描く筆遣いはきわめて静謐で、淡々としています。小さな気遣いといさかい、そして助け合いを積み重ねながら旅を続けるふたりのこまやかな描写は、ミヒャエル・ハネケ監督の映画『愛、アムール』を思い出すものがありました。

 

愛、アムール [DVD]

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 とはいえ、人間存在につねに冷徹に向き合い、ある種突き放した態度を取り続けるハネケと異なり、イシグロの手触りは非常に優しいです(そうであるがゆえの残酷さも、一面では浮き上がってきますが……)。

また、物語の展開は非常にゆっくりとしています。重要な要素はすべて終盤になってから明かされる仕組みで、読者はかなり長い間老夫婦とともに世界を「迷う」ことになります。途中何度か主人公の時間と空間の感覚を「ずらす」ことで、私たちの視界をも霧の中に放り込んでしまう作者の手腕は流石といったところ。

原書発売からまだ三か月しか経っていないにもかかわらず、『忘れられた巨人』はすでに映画化が決まっているそうです。しかし、この作品は非常に贅沢な読書体験ができるのですが、反面映像化はかなり難しそう、と思ったりもしました。イシグロ作品原作の映画はどれも非常に上質な仕上がりですが、この作品の独特なテンポは、映像にするとちょっと眠いかもしれません。

『わたしを離さないで』映画版は、原作の文体と映像の撮り方が非常にマッチしていたことが印象に残っています。小説の中では歌詞が綴られるだけだった歌謡曲「わたしを離さないで(Never Let Me Go)」に伴奏と歌がついた瞬間には震えました。

ゆきてかえりし……?物語

さて『忘れられた巨人』は、アーサー王が存在していた(とされる)時代のイングランドを舞台にしています。物語の中では、ブリテン島に古来定住していたブリトン人と、大陸から入り込んできたサクソン人の民族対立も描かれます。戦いの行く末は物語では直接言及されませんが、歴史が雄弁に語っています。

主人公をはじめ、アーサー王の輝かしい威光のもとで、穴倉でひっそりと暮らすブリトン人は、実のところはじめから滅びの運命を背負っているのです。かれらブリトン人という民族が背負う悲哀と宿命が、荒涼としたブリテン島の地盤から滲み出す終盤の展開には、息をのまずにはいられません。

 

そして……こうした主題を、「歴史ものでなく、ファンタジー小説として描く」行為はどういう意味を持っているのでしょうか。そのことを考えるとき、イングランドはこの物語の舞台であると同時に、J.R.R.トールキンという巨人を生み出した土地であることも、思い出さずにはいられません。「ファンタジー小説」というジャンルがはっきり確立されるのに、イングランドという土地がもたらした影響は計り知れないものがあります。

ホビット〈上〉―ゆきてかえりし物語

ホビット〈上〉―ゆきてかえりし物語

 

ファンタジー小説というジャンルに身を置くこと」自体が「イングランドの歴史と精神性を描く」ことに密接に関わってくる。これは、『忘れられた巨人』を読み解くひとつの鍵ではないしょうか。

 

トールキンは『ゆきてかえりし物語』を描きましたが、『忘れられた巨人』でふらふらと彷徨を続ける老夫婦はどこへ「ゆき」、そしてどこへ「かえる」のでしょうか。

壊れ物を扱うようにそっと愛し合うふたりが、ともに歩む中で最後に選んだ答えは、ぜひ本で見届けていただきたいと思います。

『三番目の魔女』を読みました

レベッカ・ライザート著『三番目の魔女』を読みました。

マクベス』を補完するひとりの少女の物語 

三番目の魔女

三番目の魔女

 

 

『三番目の魔女』シェイクスピアの戯曲『マクベス』を下敷きにした小説で、主人公のギリーをはじめ、戯曲のなかでは端役だった人々の生き様があざやかに浮かび上がる長編です。

 

マクベス (新潮文庫)

マクベス (新潮文庫)

 

 

マクベス』は主人公マクベスが荒野で三人の魔女に「謎めいた予言」を受け、その予言が次々に真実になってゆくのを見て理性を失い、王位を狙い次々に殺戮を行う……という筋立てです。シェイクスピアの四大悲劇のなかではもっとも短く、スピーディーな展開を特徴としています。それゆえにそれぞれの登場人物の心情や境遇には余白が多く、読み手に多くをゆだねられている、といえます。

『三番目の魔女』は、その余白を逆手に取り、人物同士の関係を色鮮やかな筆致で塗りこめることで、ひとりの少女の成長物語としての『マクベス』を提示しています。「マクベスにすべてを奪われた」以外何の過去も持たないギリーがすべてを思い出し、戯曲の中では点と点にすぎなかった登場人物たちがどんどんつながっていく終盤は圧巻です。

 

あらすじ:
舞台は11世紀のスコットランド。森の中で、魔女と呼ばれるふたりの老婆と暮らす少女ギリーは、長年武将マクベスに復讐を誓っている。ついに森を飛び出した少女は、城に潜み、男装した召使として、きつい仕事をこなしながらマクベスに近づく――「マクベスの心臓のかけらを三つ手に入れれば、呪いのかけ方を教えてやる」という老婆マッド・ヘルガの言葉を信じて。しかし幼い心は恐怖に揺らぎ、決意は迷いへと簡単に変わってしまう。

数か月後、なんとか城から戻ったギリーを連れて、老婆たちは荒野へ赴く。三人で協力してマクベスに呪いをかけるのだ。しかし、この「呪い」が終わらない悲劇への始まりだということを、ギリーは知らなかった……。

魔女と悪女が「女性」に戻る物語

マクベス』の「三人の魔女」に本当に未来を見通す予言の力があったのか。シェイクスピアはなにも明らかにしておらず、そのため解釈はつねに割れています。魔女たちは「運命の三女神」だったという解釈から、「彼女たちはただの人間で、すべては偶然の連鎖だった」というものまで……。これはマクベスのストーリーの鍵となる部分であり、マクベス研究のなかでもっともスリリングなところでもあります。

『三番目の魔女』は、基本的に後者の説を採っています。彼女たちは、さまざまな理由で「女」として生きる道を閉ざされ、共同体の外で生きることを余儀なくされた末に「魔女」というレッテルを貼られた存在です。現実に「魔女」と呼ばれた人々の実情に、きわめて近い設定といえます。

ギリーは村の人から「魔女」と呼ばれながら、自分は魔法の力なんて持っていないことを知っています。マクベスを呪い殺したいから、恩人を救いたいから……ギリーは「本物の魔女」になりたいと、何度も、さまざまな理由で願いますが、それは決して叶いません。「魔女」とはあくまで、共同体から振られる「役割」であり「レッテル」以上のものではないのです。

 

「村の人は私たちを魔女だとみなしてるわ」と私は言う。
「魚を馬と呼ぶことはできるさ」とネトルが言う。「でも、鞍を置いて市場まで乗って行こうって言うんなら、お気の毒様」

――『三番目の魔女』本編より

 

さて、ギリーの性格についてもう少しふれておきましょう。

ギリーは読み書きができる聡明な少女ですが、非常に傲慢かつ荒っぽい性格で、自分の非を素直に認めることができません。ふたりの老婆は再三にわたり「復讐などやめろ、マクベスではなく、おまえやおまえの愛する者が犠牲になる」と告げますが、ギリーは「自分は死んでもかまわないし、愛する人などいない」と跳ねつけてしまいます。しかし、この意固地で自分本位な彼女の性格にこそ、物語の秘密が隠されているのです。

マクベス』に登場する「自分本位な女」といえば、マクベス夫人を抜きに語れません。夫であるマクベスを王位につけようと画策するマクベス夫人の悪女ぶりは、原作でも鮮やかに描かれます。

そして『三番目の魔女』のなかで、似た者同士のマクベス夫人とギリーは、いわば鏡写しの存在として交錯します。マクベス夫人は本当に「悪女」なのか。いや、ギリーが本物の「魔女」になれない一人の少女であるように、マクベス夫人もまた、痛みを抱えながら今を生きる、ひとりの女性ではないのか。

終盤マクベス夫人とギリーがついに出会ったとき、ともに炎のような性格を持つ「彼女たち」の苦しみが浮かび上がります。

作品の中でままならない運命に翻弄されているのは、マクベスだけではなかったのです。

自らの生につきまとう苦しみを受け入れながらも、最良の道を選び取り、自分の足で進もうとするギリーの最後の決意は、おそらくマクベス夫人との邂逅がなければ成り立たなかったでしょう。ギリーが「悪女」といわれたマクベス夫人に光を当て、マクベス夫人もギリーを明るく照らす。ギリーの在り方は400年前の原作の現代的な再解釈として、美しく仕上がっていると思います。

 

ホグワーツ組み分け大解剖(2) 寮同士の対立をみる

勇気のグリフィンドール、狡猾のスリザリン、寛容のハッフルパフ、英知のレイブンクロー。

なぜこの四つの徳目が、ホグワーツの組み分けにおいて重要なのでしょうか。今回は「共同体(ホグワーツ)が生き延びるために何が必要か」という視点で、いつもの話題を読み解いていこうと思います。

Twitterなどに分散して書いていたことなので、おそらく読むのは数度目、という方もいらっしゃるかと思います。ですが便宜上、もう一度こちらにも

HOGLOGY

のできる過程と、寮の特性の把握に用いた事柄を載せておきます。

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ちょうど昨年(2014年)の春頃に、オフ会での会話をもとに作ってみた図です。中世の世界観(大雑把な理解)に基づいて、各寮の属性をまとめたら、こんな感じになるのではないかな、という図です。

この図がすこし新しかったのは、四寮の対立を「俗-聖」と「革新-保守」の、ふたつの二項対立でとらえ直したところにあります。そのうえで、レイブンクロー-ハッフルパフの対立を、グリフィンドール-スリザリンより重要なものとしておきました。なぜなら、この図の「俗-聖」、HOGLOGYにおける「外向的-内向的」という基準は、人間の動かしがたい気質であって、能動的な思想や意思のもちかたではないからです。
 

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「革新(獅子)-保守(蛇)」の区分けは、あくまでも思想の問題です。必要とされる資質は時に重なりますし、流動的です。方向性はちがえど、ひとつの意思のもとに結集して人を導く、という点は同じで、ある意味似た者同士でもあります。
 
ですから、あるキャラが「グリフィンドール的か/スリザリン的か」という問題は、しばしば議論を呼びます。スリザリン寮のある人物がダンブルドアに言われた「時々組み分けが性急すぎるのではないかと思う」という言葉や、ハリー自身の組分けの様子などがそれにあたるでしょう。
魔法界の「保守」と「革新」とはいったいなんなのか。さまざまな視点がありますが、ひとまずきわめて漠然と、自ら(魔法界)の伝統を守るために変化をこばむ態度を保守とおき、積極的に魔法法の制度改革をはかり、マグルとの融和をめざす態度を革新とおいています。
 
そして、グリフィンドール-スリザリンの対立が「どうアイデンティティを獲得するか」なのに対し、ハッフルパフとレイブンクローの存在は、「どう生きるか」に直結しています。
ホグワーツ創設当初のスコットランドは、ローマを中心とする中世ヨーロッパ世界の最果てでした。岩山と森、そしてヒースだけがどこまでも続いている、きわめて厳しい辺境の土地です。そんな場所に根差して生き抜くことは、非-魔法族はもちろん、魔法使いにとってもやさしい問題ではないはずです。
彼らにとっての敵はまず、あまりにも貧しい自然でした。自然を征服して飼いならさないことには、ほかの人間に勝利などできるはずもありません。
 
中世ヨーロッパで生き抜くすべはたった一つ、「共同体内の団結」です。
そのために欠かせない要素が、ハッフルパフの徳目である「忍耐と寛容」と、レイブンクローの徳目である「知識」なのです。
すべての人間をホグワーツという共同体へ受け入れる博愛の精神は、生き延びる人間がひとりでも多くなることにつながります。そして「学問」としての知識は、共同体をさらに繁栄させる力を生み出します。
ホグワーツが創設された当初、「学問」として体系だった知識を得られる場所は修道院しかありませんでした。農学、経済学、歴史学兵学まで……すべての学問はいわゆる「神学の侍女」として位置づけられ、宗教研究とともに行われる必要がありました。そんなわけで、当時ホグワーツにどんな宗教が根付いていたのか(あるいは神を持たなかったのか)はともかく、上の図では学問を「聖なるもの」として宗教にひもづいています。
 
こうして見ると、ホグワーツの四寮の「勇気・狡猾・寛容・英知」という徳目はすべて「共同体を生き延びさせるために、自分がどんな役割を果たすか」という視点に基づいていることがわかりますね。
ホグワーツ創設当初、戦いにつづく戦いのすえに、サラザール・スリザリンは学校を去ることになります。ですが、それでもスリザリン寮は廃止されることなく、ハリーの子供の世代になってもしっかり存続しています。その意味を改めて考えてみるのも面白いですね。
 
そして、これをベースに保守-外向的/革新-内向的など「それっぽい」性格をあてはめて出来上がった図がこちら。

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私はINTP、レイブンクロー寄りのグリフィンドールです。ですがこの表、どちらかというと本当にみるべきなのは自分の立ち位置より「対極に何があるか」なのかもしれないなと思います。自分を補ってくれるものを、漠然とした形であれ把握できるようになることで、生きやすくなるヒントが得られるのではないでしょうか。そんな実感を、作ってみて一年ほど経て思うのでした。
忘れられた巨人

忘れられた巨人

 

中世のブリテン島のお話ならぜひこちらも。

ホグワーツ組分け大解剖(1) 帽子さん、どうやって組分けてるの!?

こんにちは。私はさよ、グリフィンドールの157年生です。趣味は石油の掘削、特技は新入生の組分けです。
世は空前の石油ラッシュ。そこで寝そべって画面を見ているキミ。勇気とチャレンジ精神にあふれるキミは、今こそグリフィンドール寮に入って一緒に油田を開発しよう!

……さて。今日からはいよいよ、みんな大好き組分けの儀式についてお話ししていこうと思います。
めっちゃめちゃ長くなることが予想されるので、この記事では前ふりだけ。次回から各寮について掘り下げていこうと思います。

血統・性格≒能力・意思

とりあえず、新入生の組分けはどうやってなされるのか、おさらいしましょう。
ホグワーツができた当初、4人の創設者は、好みの生徒をめいめい選んで組み分けたといいます。しかし、ゴドリック・グリフィンドールの帽子に、4人がそれぞれ魔法をかけて以降、開心術を使える不思議な「組分け帽子」が、新入生の7年間を決める儀式を担うことになりました。

グリフィンドール勇気と騎士道精神
ハッフルパフ勤勉さと正直さ
レイブンクロー知識欲と機知
そして、スリザリン血統と狡猾さを、それぞれ重視します。

とはいえ、これだけではちょっとぼんやりしてますよね。
さらにみていくと、組分け帽子は新入生の頭にひそむ三つの要素それぞれを評価して、入る寮を決めていることがわかります。それが、「1.血統 2.性格/能力 3.意思」です。本編にはこの基準は直接登場しないので、わかりにくいかもしれません。

ひとまず、組み分けに関するエピソードがあるキャラクターを中心に、いくつか例を挙げてみましょう。

1.血統

・ドラコ・マルフォイ(スリザリン)
ロン・ウィーズリー(グリフィンドール)
・ヴォルデモート(スリザリン)

まずは血統です。身も蓋もありません。先天的な要素で、本人にはどうすることもできません。とりわけスリザリンは、寮生を選ぶ基準のひとつに「純血家系であること」をおいているため、比較的(1)の率が高いことが推測されます。
とはいえ、スリザリン以外でも「特定の寮に行きやすい家系」というのは存在するようです(就学前の教育や環境が、本人に影響している可能性も十分考えられますが)。その代表例は、ほかならぬウィーズリー家でしょう。
ただし、同じ家族でも別の寮に行く場合(双子のパチル姉妹など)もままあるため、謎の多い要素ではあります。
ちなみに……イギリスは今もなお、階級意識が非常に深く根を下ろしている国です。異なる階級同士は「違う世界」で生きているものとされ、交流はほとんどありません。ところが、ホグワーツはイギリス唯一の魔法学校です。貴族も労働者も「イギリスに住む魔法使いは全員」同じ学び舎に放り込まれて、7年間を過ごします。そうなると当然、上の階級からは「なぜ労働者と一緒にされねばいかんのだ」という不満が生じることが想定されます。
まさしくそうした考えを持っている、ルシウス・マルフォイの学校へ対する態度をみる限り、スリザリン寮は(もちろんサラザールの好みもありますが)どうも実質的に「Upper-Class(貴族階級)を他の階級から選別し、不満を解消する受け皿」として機能していた部分があるようにみえます。魔法族はマイノリティですから、「純血主義」をモットーに掲げるって、実は「上流階級のアイデンティティを維持する」以外のメリットがないんですよね……。

日本人の感覚からするとちょっと想像しがたいですが、そのあたりの事情は非常におもしろいです。

 

2.性格/能力

ミネルバ・マクゴナガル(グリフィンドール)
・ネビル・ロングボトム(グリフィンドール)

おそらく一番多いパターン。だいたいの生徒が、先天的な性格・もしくは後天的に身につく(であろう)能力のどちらかを見込まれて、いずれかの寮に振り分けられます。例に挙げたのは、ほかの寮と迷われた末に、伸びしろの大きい性格/能力をみこまれて、今の寮に落ち着いたパターンのふたりです。
特にネビルは象徴的な存在です。もともとハッフルパフに入ることを望んでいましたが、組み分け帽子は最初から、彼をグリフィンドールに入れることを決めていました。次に登場するハリー・ポッターとは、まったく逆のパターンで、ふたりは同じ寮に入ったのです。

 

3.意思

ハリー・ポッター(グリフィンドール)
シリウス・ブラック(グリフィンドール)
ハーマイオニー・グレンジャー(グリフィンドール)

1の血統、2の性格のどちらか(あるいは両方)に本人が強い抵抗を示した場合、その意思を汲んで別の寮に組分けられることがあります。もちろん帽子は、その「抵抗の意思」自体を「面白い資質」のひとつだとみているはずなので、(2)の範疇にふくめてもいいでしょう。

しかしこの「意思」はけっこう厄介なしろもので、単純な性格診断ではなかなか観測できません。そしてこの組分け時の「意思」と「性格/能力」の差異こそが、実は「ハリー・ポッター」と「ネビル・ロングボトム」のキャラクター設定に大きくかかわっていますので、今回はあえて別のパラメータとしてセットしました。

血統(階級)・性格(能力)・意思。このすべての要素を見つめなければいけないので、組み分けというのは案外大変な作業です。
以前制作したHOGLOGYで診断できるのは、(2)の「現在の性格」という、ごく一部の要素から抽出した結果のみですから、やっぱり完全に正確とはかぎりません。

HOGLOGY-組分け×性格診断-

本当のところは帽子のみぞ知る、です。
組み分け、めちゃめちゃ奥深い……。

次の記事からはいよいよ、各寮の性質を順を追ってみていきたいと思います。あの子と同じ寮になりたいあなたは要チェック!