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魔女のブログ Twitter::Sayonaky

二人の主人公のはざまで―ハリポタの読者の「役割」の変化について

今日お話ししたいのは『ハリー・ポッター』シリーズにおける読者の役割(ロール)の変化についてです。

2007年に『ハリー・ポッターと死の秘宝』が発売されてから、なんと8年が経とうとしています。あのとき生まれた子どもたちはいまや小学二年生。リアタイ勢だった私にはまったく実感が湧かないのですが、「原作が完結してからハマった」ファンもたくさんいるんですよね。

原作完結から2015年までの間に、テーマパーク化や「ポッターモア」の公開、『幻の生物とその生息地』の映画化決定など、実にさまざまなメディアミックスが行われてきました。

この機会に、完結後にハリポタが辿ってきたメディアミックス展開を、ちょっとおさらいしてみましょう。そして、今までの主人公の「ハリー」と、次回作からの主人公の「ニュート」の性質の違いについてみていきたいと思います。

「ハリーのとなり」から「きみの物語」へ

ウェブサイト「ポッターモア」

原作者のJ.K.ローリング全面監修の、「ハリー・ポッターシリーズ」の公式サイト。魔法界の新情報は、基本的にここかローリング氏のツイッターで得ることになります。

β版は2011年にリリースされ、正式なサービス開始は2012年4月です。

会員登録をすることで、組分けの儀式や杖選び、殺伐とした決闘や魔法薬作りが楽しめます。また、数ヶ月毎のタームで寮対抗杯も開催されています。自宅のパソコンの前にいながらにして、ホグワーツの生徒になりきれるサービスです。

最大の見どころは「ハリポタ大事典」とでもいうべき情報量で、ここでしか見られない記事も多数存在します。マクゴナガル先生やルーピン先生の波乱万丈の人生はファンならずとも必見。

組分けされた(アカウントを取得した)生徒は、世界で1000万人以上にのぼります(2015年現在)。

PS3「Wonderbook」シリーズ

ハリポタのゲーム版といいますと『賢者の石』~『死の秘宝』までのハリーをプレイヤーとした作品を想像される方も多いかと思いますが、実は2012年以降新しいシリーズがPS3で発表されています。

 別売のモーションコントローラとカメラ、そして「ワンダーブック」と呼ばれる同梱のコントローラを使うことで、「杖と教科書を持った魔法使い」として、テレビ画面の中に入り込むことができます。プレイヤーはハリーではなく「魔法使いになった私たち自身」なのです。

 


Wonderbook: Book of Potions - Game Play - YouTube

筆者はまだ両方とも未プレイ。早くやりたい!

テーマパーク 

2010年のユニバーサル・オーランド・リゾートを皮切りに、各地での建設が発表され、2014年にはついにUSJでもオープンしました。主力のアトラクションは連日大行列で、ハリポタのコンテンツとしての強さを裏付ける結果になっています。また、オーランドでは新エリア「ダイアゴン横丁」もオープンしています。

主人公はもちろん、ひとりひとりのゲスト。マダム・マルキンで買ったローブを着たり、「三本の箒」でご飯を食べたり、オリバンダーで選ばれた杖を振ってみたり……読書体験をはるかに飛び出した「360度魔法界」という空間が広がっています。

「伴走者」のハリーと「案内役」のニュート

ハリー・ポッター』シリーズの児童書としての魅力の一つは、「同じ視点にいるハリーとともに、マグルの世界を飛び出して、はじめて魔法界を知っていく物語」である点でした。そして原作が終了してからの展開を見ると、各作品での「主人公」が、少しずつわたしたち読者へとシフトしていることがわかります。しかも、オンライン空間→ゲーム→テーマパークと、ひとつずつ段階を踏む形で。

原作者は「次はきみたちが魔法界で物語を紡ぎ、演じる番なんだよ」と背中を押してくれているのかもしれませんね。

 

ちなみに次回作の映画『幻の生物とその生息地』は、ホグワーツ生徒が持つ教科書の映画化という、ちょっと変わった設定になっています。主役のニュート・スキャマンダーは魔法界の役人ですが、世界各地を飛び回って幻獣百科を作り上げた人物で、「魔法界では誰もが知る有名人」という設定です。

この時点で、ハリーとまったく同じように感情移入するのは、ちょっと難しそうにみえます。ですが、これはおそらく原作者の計算と、あらたな試みによるものではないでしょうか。

魔法界を旅するハリーを伴走者と位置づけるなら、ニュートという人物は、さらに広い世界を見せてくれる案内役といえるでしょう。物語の中心はいまや「魔法界」そのものであり、主人公は私たちなのです。

もともと世界観や道具にこだわらない、複雑な人間劇を得意とするJ.K.ローリングの脚本なので、おそらく今までと同様魅力的な映画に仕上がるのだろうと思います。

しかし、「伴走者」ではなく「案内役」に導かれる次回作は、今までの『ハリー・ポッター』シリーズとは、ちょっと違った楽しみ方が要求されることになるかもしれませんね。

「炎のゴブレット」を久々に観て――箱庭の終わり

日本テレビでの『ハリー・ポッターと炎のゴブレット』の放送が終わってしまい、一週間が経とうとしています。2015年の「ハリポタ祭り」はこれで一区切りを迎えたことになりますね、ちょっと寂しい。

とはいえ、2016年には『不死鳥』『謎プリ』『死の秘宝1・2』の四作品が地上波放送されることが決まりました。おそらく『幻の動物とその生息地』の公開に合わせてくるのでしょう。楽しみはまだまだこれからです。

それにしても『炎ゴブ』の映画、久々に観たのですがとても面白かったです。最近はなかなか原作に触れる機会がなかっただけに、頭をからっぽにして没入できました。

広がる世界――『炎のゴブレット』の魅力

私が『賢者の石』の映画版のおかげでハリポタに夢中になったころ、ちょうど発売されたのが『炎のゴブレット』の日本語訳でした。たまたまクリスマスプレゼントで『炎ゴブ』をもらってしまった私は、なんと2,3を飛ばして4巻を読んでしまったのです。「シリウスおじさんって誰!?」というところで躓きながらもストーリーは楽しんでいたのですから、今からしてみると考えられないような話です。

 

『炎のゴブレット』を他の六作品と区別する要素は「広さ」だといえるでしょう。「クィディッチ・ワールドカップ」の観戦から「トライウィザード・トーナメント」へなだれ込む物語の中で、ハリーはクラムやフラーといった海外生まれのキャラクターと交流することになります。そして、この二つの大事業を統括するのは、5~7巻で良くも悪くも重要な役割を担う、「大人の世界」の象徴である魔法省です。四年生になったハリーは、「マグルの世界」とも「ホグワーツ」とも違う、魔法界のあらたな側面を次々に知ってゆくのです。

 5~7巻の中で「海外の魔法界(魔法学校)」が持つ役割は、正直大きいとはいえません。しかし映画「幻の生物~」でアメリカの魔法学校が登場することが確定したとなると、『炎のゴブレット』の持つ国際性は、俄然大きな伏線として機能し始めます。

ついでに言うと次回作の主人公のニュート・スキャマンダーは魔法省の役人ですから、そういう意味でも『炎のゴブレット』は重要です。「ハリーの物語」から離れた「魔法界」を描くための設定が、この巻には詰まっているのですね。

 

と同時に、『炎のゴブレット』はハリーの成長の中でも独特な立ち位置を占めています。

1巻から3巻までの物語は、いわばホグワーツの中で完結する「箱庭の物語」だといえますが、5巻から7巻は「ヴォルデモートとの対峙」が主軸になっていきます。そのはざまに位置する4巻で、ハリーは「選ばれし者」としての洗礼を受けます。

 その象徴といえるのが、ヴォルデモートの復活による「血の護り」の無効化です。

4巻までのハリーは、ダーズリー家という「成人するまでの隠れ家」、ホグワーツという古来からの呪文に守られた城、そしてリリー・ポッターの「血の護り」によって、三重に護られていました。しかしその一つが、ついに破られてしまうのです。

そしてホグワーツは、物理攻撃にはめっぽう強いですが、スパイの侵入や法による圧力を防げはしないことを、ハリーはよく知っています。そのため5巻以降ホグワーツはもはや「安全な箱庭」ではなく、紛うことなき「戦場」になってしまいます。

 

その後の展開を知っている身からすると、『炎のゴブレット』はまだ箱庭だった頃のホグワーツへの郷愁を、ひときわ感じられる作品に仕上がっています。ここも大きな魅力だといえますね。ああ、本を読み返したい。

刀剣たくさん! 根津美術館「江戸のダンディズム」を観ました

そういえば英国と魔法の話しかしていなかったので、趣味の美術館巡りの話でもはさむことにしましょう。

刀と拵の超絶技巧に酔う

根津美術館で5/30(日)~7/20(月・祝)まで開催中の「江戸のダンディズム 刀から印籠まで」を見てきました。

今回はコレクション展ですが、刀剣・刀装具・印籠という三つのジャンルの工芸品から、江戸の男性たちの持つ美意識に光を当てる展覧会です。

 

DMMのオンラインゲーム「刀剣乱舞」のリリース以来、全国の美術館・博物館は空前の刀剣ブーム! 江戸東京博物館で開催された「大関ヶ原展」や、各地で行われている特別展示などをきっかけに、刀の世界に興味を持たれている審神者の皆さんも多いのではないでしょうか。刀のみならず、刀を飾る刀装具の世界にもスポットが当てられているこの展覧会は、刀剣の世界にどっぷり浸るにはぴったりだといえるでしょう。

 

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フライヤーもハイセンスですね。男性が手に持っているのは「鏡勾玉蒔絵脇指拵」。天狗の面や榊といった神道のモチーフが随所にちりばめられています。

 

さて、展覧会のテーマになっている、江戸の武士の刀剣事情とはいかなるものだったのでしょうか。

 

江戸はネットワーク (平凡社ライブラリー)

江戸はネットワーク (平凡社ライブラリー)

 

 

戦国の世が終わり、太平の世となってからも、武士階級は刀を携行します。そのため武器として用いられる機会が減っても、刀鍛冶の需要がなくなるということは、基本的にありませんでした。この点は鉄砲との大きな違いだといえます。

とはいえ、江戸時代の刀剣は、武器としての実用性よりもむしろ男性のファッションの一部、装飾品としての美的価値が重んじられていました。ですから、このころに打たれた刀は古様をまねたり、新しい刃文(濤乱刃など)を開発したりしながら、繊細で流麗な作風をきわめています。龍などの彫り物がなされたものも非常に多く、概して「見られる」ことに重きを置いた作りだと言えます。

そして江戸期から明治期にかけておおいに発展したのが、鍔や鞘などの刀装です。いうなれば刀に着せる衣装のようなもので、基本的に持ち主の好みにあわせてあつらえます。鞘は木に漆を塗って作るため漆工、鍔などの刀装具には金工の技術が必要で、さらに目貫(鞘と刀身をつなぐ釘)・小柄(刀に付属する小刀)・笄(こうがい・髪を整える道具)といった小物には、彫金の技術が必要とされます。

ほんの数センチしかない大きさの目貫にすら、十二支や孔子を彫らせて愛でる上流階級の武士たちのセンスには驚かされます。着物や髪型といったわかりやすい部分にではなく、ちらりと見える小物に本物の美を凝縮させる……こうした江戸の男性の「いき」な態度は、「印籠」に込めた情熱にもはっきり表れています。

「いき」の構造 他二篇 (岩波文庫)

「いき」の構造 他二篇 (岩波文庫)

 

 

刀装具や印籠は江戸美術の重要な一分野を担うに至り、漆芸・金工・彫金すべての分野が、技法・デザイン双方において研ぎ澄まされていきました。そして300年の時を経て幕末に登場したのが、金工の加納夏雄・彫金の海野勝珉・漆芸の柴田是真……という三人の天才です。明治の鉄道王であり、根津コレクションを築いた初代・根津嘉一郎は、かれらの作品を熱心にコレクションしています。

 

刀に沿うように揺れる、鞘の稲穂や早蕨の曲線美には、ただただ酔いしれるほかありません。鍔や印籠、三所物(目貫・小柄・笄の三点セットのこと)をルーペでよく見れば、戦いとは遠く隔たった小宇宙が広がっています。

江戸人が極限まで追い求めた美のかたち、ぜひ生で堪能してみてください。

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お庭もとてもきれいでした。根津美術館はいつ来ても楽しいですね。

 

『忘れられた巨人』を読みました。

今日の話題はカズオ・イシグロの新刊『忘れられた巨人』(原題:"The Buried Giant")です。ネタバレは極力避けつつの感想です。

カズオ・イシグロといえば現代劇を得意とする作家のようなイメージが先行しますが、本作はさにあらず。6~7世紀の中世初期のイングランドが舞台で、しかもドラゴンや魔法が何の説明もなく登場してきます。ジャンルとしては、ファンタジーに位置付けられるでしょう。 

忘れられた巨人

忘れられた巨人

 

 

しかし、作者が物語の主軸に置いているものは、いままでの作品と通底しています。「ジャンル小説」という枠組みを巧妙に利用しながら、きわめて現代的な心情をえぐりだし、美しい人間劇を紡ぎあげるという点は、近未来を舞台にしたSFの『わたしを離さないで』と共通しているでしょう。作者の特徴である細密な人間描写と、「終りゆくもの」への愛情あふれる態度は、今作ではさらに研ぎ澄まされています。

わたしを離さないで (ハヤカワepi文庫)

わたしを離さないで (ハヤカワepi文庫)

 

とはいえ『忘れられた巨人』がファンタジーであることの意味は、決して軽いものではないと私は思っています。悪鬼やドラゴンが飛び出すブリテン島を包み込む、大きな秘密が明かされる終盤で、文章からは並々ならぬ気迫と、「この作品がファンタジーであること」に対する決意が漂ってくるのです。

それを論じる前に、ひとまずあらすじをご紹介しましょう。

 

あらすじ:

小さな村で若干疎外されながら暮らしている、アクセルとベアトリスの老夫婦は、長年会っていない息子に出会うため旅に出ることにする。荒野や森をいくつも越えるなかで、サクソン人の若き戦士や、アーサー王の命を受けて旅する老騎士、悪鬼にさらわれた奇妙な少年などに出会う。人々に会う中でふたりの持つ記憶はだんだんと揺らぎ、旅路は深い霧にかき乱される。はたして二人は息子のもとへたどり着けるのか?

老夫婦とともに時間を過ごす

旅と戦いが中心を占める壮大なストーリーですが、主人公の老夫婦を描く筆遣いはきわめて静謐で、淡々としています。小さな気遣いといさかい、そして助け合いを積み重ねながら旅を続けるふたりのこまやかな描写は、ミヒャエル・ハネケ監督の映画『愛、アムール』を思い出すものがありました。

 

愛、アムール [DVD]

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 とはいえ、人間存在につねに冷徹に向き合い、ある種突き放した態度を取り続けるハネケと異なり、イシグロの手触りは非常に優しいです(そうであるがゆえの残酷さも、一面では浮き上がってきますが……)。

また、物語の展開は非常にゆっくりとしています。重要な要素はすべて終盤になってから明かされる仕組みで、読者はかなり長い間老夫婦とともに世界を「迷う」ことになります。途中何度か主人公の時間と空間の感覚を「ずらす」ことで、私たちの視界をも霧の中に放り込んでしまう作者の手腕は流石といったところ。

原書発売からまだ三か月しか経っていないにもかかわらず、『忘れられた巨人』はすでに映画化が決まっているそうです。しかし、この作品は非常に贅沢な読書体験ができるのですが、反面映像化はかなり難しそう、と思ったりもしました。イシグロ作品原作の映画はどれも非常に上質な仕上がりですが、この作品の独特なテンポは、映像にするとちょっと眠いかもしれません。

『わたしを離さないで』映画版は、原作の文体と映像の撮り方が非常にマッチしていたことが印象に残っています。小説の中では歌詞が綴られるだけだった歌謡曲「わたしを離さないで(Never Let Me Go)」に伴奏と歌がついた瞬間には震えました。

ゆきてかえりし……?物語

さて『忘れられた巨人』は、アーサー王が存在していた(とされる)時代のイングランドを舞台にしています。物語の中では、ブリテン島に古来定住していたブリトン人と、大陸から入り込んできたサクソン人の民族対立も描かれます。戦いの行く末は物語では直接言及されませんが、歴史が雄弁に語っています。

主人公をはじめ、アーサー王の輝かしい威光のもとで、穴倉でひっそりと暮らすブリトン人は、実のところはじめから滅びの運命を背負っているのです。かれらブリトン人という民族が背負う悲哀と宿命が、荒涼としたブリテン島の地盤から滲み出す終盤の展開には、息をのまずにはいられません。

 

そして……こうした主題を、「歴史ものでなく、ファンタジー小説として描く」行為はどういう意味を持っているのでしょうか。そのことを考えるとき、イングランドはこの物語の舞台であると同時に、J.R.R.トールキンという巨人を生み出した土地であることも、思い出さずにはいられません。「ファンタジー小説」というジャンルがはっきり確立されるのに、イングランドという土地がもたらした影響は計り知れないものがあります。

ホビット〈上〉―ゆきてかえりし物語

ホビット〈上〉―ゆきてかえりし物語

 

ファンタジー小説というジャンルに身を置くこと」自体が「イングランドの歴史と精神性を描く」ことに密接に関わってくる。これは、『忘れられた巨人』を読み解くひとつの鍵ではないしょうか。

 

トールキンは『ゆきてかえりし物語』を描きましたが、『忘れられた巨人』でふらふらと彷徨を続ける老夫婦はどこへ「ゆき」、そしてどこへ「かえる」のでしょうか。

壊れ物を扱うようにそっと愛し合うふたりが、ともに歩む中で最後に選んだ答えは、ぜひ本で見届けていただきたいと思います。

『三番目の魔女』を読みました

レベッカ・ライザート著『三番目の魔女』を読みました。

マクベス』を補完するひとりの少女の物語 

三番目の魔女

三番目の魔女

 

 

『三番目の魔女』シェイクスピアの戯曲『マクベス』を下敷きにした小説で、主人公のギリーをはじめ、戯曲のなかでは端役だった人々の生き様があざやかに浮かび上がる長編です。

 

マクベス (新潮文庫)

マクベス (新潮文庫)

 

 

マクベス』は主人公マクベスが荒野で三人の魔女に「謎めいた予言」を受け、その予言が次々に真実になってゆくのを見て理性を失い、王位を狙い次々に殺戮を行う……という筋立てです。シェイクスピアの四大悲劇のなかではもっとも短く、スピーディーな展開を特徴としています。それゆえにそれぞれの登場人物の心情や境遇には余白が多く、読み手に多くをゆだねられている、といえます。

『三番目の魔女』は、その余白を逆手に取り、人物同士の関係を色鮮やかな筆致で塗りこめることで、ひとりの少女の成長物語としての『マクベス』を提示しています。「マクベスにすべてを奪われた」以外何の過去も持たないギリーがすべてを思い出し、戯曲の中では点と点にすぎなかった登場人物たちがどんどんつながっていく終盤は圧巻です。

 

あらすじ:
舞台は11世紀のスコットランド。森の中で、魔女と呼ばれるふたりの老婆と暮らす少女ギリーは、長年武将マクベスに復讐を誓っている。ついに森を飛び出した少女は、城に潜み、男装した召使として、きつい仕事をこなしながらマクベスに近づく――「マクベスの心臓のかけらを三つ手に入れれば、呪いのかけ方を教えてやる」という老婆マッド・ヘルガの言葉を信じて。しかし幼い心は恐怖に揺らぎ、決意は迷いへと簡単に変わってしまう。

数か月後、なんとか城から戻ったギリーを連れて、老婆たちは荒野へ赴く。三人で協力してマクベスに呪いをかけるのだ。しかし、この「呪い」が終わらない悲劇への始まりだということを、ギリーは知らなかった……。

魔女と悪女が「女性」に戻る物語

マクベス』の「三人の魔女」に本当に未来を見通す予言の力があったのか。シェイクスピアはなにも明らかにしておらず、そのため解釈はつねに割れています。魔女たちは「運命の三女神」だったという解釈から、「彼女たちはただの人間で、すべては偶然の連鎖だった」というものまで……。これはマクベスのストーリーの鍵となる部分であり、マクベス研究のなかでもっともスリリングなところでもあります。

『三番目の魔女』は、基本的に後者の説を採っています。彼女たちは、さまざまな理由で「女」として生きる道を閉ざされ、共同体の外で生きることを余儀なくされた末に「魔女」というレッテルを貼られた存在です。現実に「魔女」と呼ばれた人々の実情に、きわめて近い設定といえます。

ギリーは村の人から「魔女」と呼ばれながら、自分は魔法の力なんて持っていないことを知っています。マクベスを呪い殺したいから、恩人を救いたいから……ギリーは「本物の魔女」になりたいと、何度も、さまざまな理由で願いますが、それは決して叶いません。「魔女」とはあくまで、共同体から振られる「役割」であり「レッテル」以上のものではないのです。

 

「村の人は私たちを魔女だとみなしてるわ」と私は言う。
「魚を馬と呼ぶことはできるさ」とネトルが言う。「でも、鞍を置いて市場まで乗って行こうって言うんなら、お気の毒様」

――『三番目の魔女』本編より

 

さて、ギリーの性格についてもう少しふれておきましょう。

ギリーは読み書きができる聡明な少女ですが、非常に傲慢かつ荒っぽい性格で、自分の非を素直に認めることができません。ふたりの老婆は再三にわたり「復讐などやめろ、マクベスではなく、おまえやおまえの愛する者が犠牲になる」と告げますが、ギリーは「自分は死んでもかまわないし、愛する人などいない」と跳ねつけてしまいます。しかし、この意固地で自分本位な彼女の性格にこそ、物語の秘密が隠されているのです。

マクベス』に登場する「自分本位な女」といえば、マクベス夫人を抜きに語れません。夫であるマクベスを王位につけようと画策するマクベス夫人の悪女ぶりは、原作でも鮮やかに描かれます。

そして『三番目の魔女』のなかで、似た者同士のマクベス夫人とギリーは、いわば鏡写しの存在として交錯します。マクベス夫人は本当に「悪女」なのか。いや、ギリーが本物の「魔女」になれない一人の少女であるように、マクベス夫人もまた、痛みを抱えながら今を生きる、ひとりの女性ではないのか。

終盤マクベス夫人とギリーがついに出会ったとき、ともに炎のような性格を持つ「彼女たち」の苦しみが浮かび上がります。

作品の中でままならない運命に翻弄されているのは、マクベスだけではなかったのです。

自らの生につきまとう苦しみを受け入れながらも、最良の道を選び取り、自分の足で進もうとするギリーの最後の決意は、おそらくマクベス夫人との邂逅がなければ成り立たなかったでしょう。ギリーが「悪女」といわれたマクベス夫人に光を当て、マクベス夫人もギリーを明るく照らす。ギリーの在り方は400年前の原作の現代的な再解釈として、美しく仕上がっていると思います。

 

魔法の世界は「現実」だった――映画から考えるハリポタの世界観

先週、USJハリー・ポッターエリアに行きました。3Dジャーニーよかったです。2Dに比べて、少しアトラクションとしては落ち着いてしまった感もありましたが。

そして、自宅に届くのよりも一足先に、"Harry Potter: Magical Places from the Films"を見せてもらいました。

Harry Potter: Magical Places from the Films: Hogwarts, Diagon Alley, and Beyond

Harry Potter: Magical Places from the Films: Hogwarts, Diagon Alley, and Beyond

 

 ポタエリアとMagical Place frome the Filmsをざっと見て、特に映画を中心としたハリー・ポッターの世界について思うところがあったので、今回はそのお話について。

今回問いたいのはずばり、魔法界は現実なのか、非現実なのか、という点です。

私たちにはプリベット通りでさえ魔法の世界だった

東京に住む小学一年生だった、かつての私にとって、ハリー・ポッターすべては非現実であり、夢の世界でした。プリベット通りでハリーがじゅうじゅう焼いているベーコンや、階段下の物置や、魔法省の入り口の何の変哲もない公衆電話。ハリポタの世界では、非魔法に位置するいろいろなディティールすら、私には異世界以外のなにものでもなかったのです。

ちょうど、日本にいるマグルの自分→イギリスのマグル世界→魔法界というように、そのときの私の世界は入れ子状になっていました。そして、イギリスのマグル界と魔法界の境界はどうにもあやふやで、ほとんど区別がつかなかったのです。そして実はどちらかというと、マグル界-魔法界の境目よりも、日本-イギリスの距離のほうが、自分には遠く思えたりして……。

 

そして、それから十年余り後。六本木ではハリポタ展が開催され、大阪にはホグワーツが建ち……魔法の世界はつぎつぎに、映画のセットの再現という形をとって、現実にあらわれてきます。

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そしてここで私はふと気づくのです。魔法界自体は決して異世界ではない。魔法界をふんわりとつつんでいる「イギリス的なるもの」こそが、私にとっての異世界だったのだと。

このことは、スタジオツアーやUSJを巡れば一目瞭然でしょう。先述の書籍をくわえればさらにわかりやすい。ハリー・ポッターのセットはどれも、現代のイギリスと、伝統的なイギリスの建築や村・街をどこまでも忠実に模倣することでなりたっています。

映画を中心とするハリー・ポッターの世界観は、さいしょから非現実の空間を創造することなんてめざしてはいなかったのです。あくまでも、イギリスという現実を拡張することで、そのはざまに魔法の世界があるかのようにみせかけているのです。私はそのイギリスという現実のなかに、フィクションの世界を見ていたのです。

この手法は、ディズニーのテーマパークづくりと比較するとわかりやすいのではないかと思います。フロリダのディズニーランドがめざした「アメリカという国家を癒すためにつくられた、非現実の夢の国」は、ハリー・ポッターの「イギリスというひとつの現実の拡張」とは、ある意味対極に位置すると思います。

ディズニーのように、完璧な夢の世界をゼロから創り上げるより、現実という1を10にするという形をとった、とも言えるでしょう。

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 ハリー・ポッターの魔法の世界は、「1を10にすること」で作られている。そこに「ゼロ」という虚構はないのです。

だからこそ私たちは信じることができるのです。

「魔法の世界は、ある」と。

 

ちなみに、この視点からいくと、アメリカの「古き良き時代」のニューヨークを舞台にした次作以降の映画は、同様に「1から10を創造する」手法をとると思われます。

そしてこれは、「夢の世界の作り方」という点で、ディズニーと真っ向から対立するのです。この点もおさえておくと、魔法の世界をまた一段と楽しめるかもしれないですね!

ホグワーツ組み分け大解剖(2) 寮同士の対立をみる

勇気のグリフィンドール、狡猾のスリザリン、寛容のハッフルパフ、英知のレイブンクロー。

なぜこの四つの徳目が、ホグワーツの組み分けにおいて重要なのでしょうか。今回は「共同体(ホグワーツ)が生き延びるために何が必要か」という視点で、いつもの話題を読み解いていこうと思います。

Twitterなどに分散して書いていたことなので、おそらく読むのは数度目、という方もいらっしゃるかと思います。ですが便宜上、もう一度こちらにも

HOGLOGY

のできる過程と、寮の特性の把握に用いた事柄を載せておきます。

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ちょうど昨年(2014年)の春頃に、オフ会での会話をもとに作ってみた図です。中世の世界観(大雑把な理解)に基づいて、各寮の属性をまとめたら、こんな感じになるのではないかな、という図です。

この図がすこし新しかったのは、四寮の対立を「俗-聖」と「革新-保守」の、ふたつの二項対立でとらえ直したところにあります。そのうえで、レイブンクロー-ハッフルパフの対立を、グリフィンドール-スリザリンより重要なものとしておきました。なぜなら、この図の「俗-聖」、HOGLOGYにおける「外向的-内向的」という基準は、人間の動かしがたい気質であって、能動的な思想や意思のもちかたではないからです。
 

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「革新(獅子)-保守(蛇)」の区分けは、あくまでも思想の問題です。必要とされる資質は時に重なりますし、流動的です。方向性はちがえど、ひとつの意思のもとに結集して人を導く、という点は同じで、ある意味似た者同士でもあります。
 
ですから、あるキャラが「グリフィンドール的か/スリザリン的か」という問題は、しばしば議論を呼びます。スリザリン寮のある人物がダンブルドアに言われた「時々組み分けが性急すぎるのではないかと思う」という言葉や、ハリー自身の組分けの様子などがそれにあたるでしょう。
魔法界の「保守」と「革新」とはいったいなんなのか。さまざまな視点がありますが、ひとまずきわめて漠然と、自ら(魔法界)の伝統を守るために変化をこばむ態度を保守とおき、積極的に魔法法の制度改革をはかり、マグルとの融和をめざす態度を革新とおいています。
 
そして、グリフィンドール-スリザリンの対立が「どうアイデンティティを獲得するか」なのに対し、ハッフルパフとレイブンクローの存在は、「どう生きるか」に直結しています。
ホグワーツ創設当初のスコットランドは、ローマを中心とする中世ヨーロッパ世界の最果てでした。岩山と森、そしてヒースだけがどこまでも続いている、きわめて厳しい辺境の土地です。そんな場所に根差して生き抜くことは、非-魔法族はもちろん、魔法使いにとってもやさしい問題ではないはずです。
彼らにとっての敵はまず、あまりにも貧しい自然でした。自然を征服して飼いならさないことには、ほかの人間に勝利などできるはずもありません。
 
中世ヨーロッパで生き抜くすべはたった一つ、「共同体内の団結」です。
そのために欠かせない要素が、ハッフルパフの徳目である「忍耐と寛容」と、レイブンクローの徳目である「知識」なのです。
すべての人間をホグワーツという共同体へ受け入れる博愛の精神は、生き延びる人間がひとりでも多くなることにつながります。そして「学問」としての知識は、共同体をさらに繁栄させる力を生み出します。
ホグワーツが創設された当初、「学問」として体系だった知識を得られる場所は修道院しかありませんでした。農学、経済学、歴史学、兵学まで……すべての学問はいわゆる「神学の侍女」として位置づけられ、宗教研究とともに行われる必要がありました。そんなわけで、当時ホグワーツにどんな宗教が根付いていたのか(あるいは神を持たなかったのか)はともかく、上の図では学問を「聖なるもの」として宗教にひもづいています。
 
こうして見ると、ホグワーツの四寮の「勇気・狡猾・寛容・英知」という徳目はすべて「共同体を生き延びさせるために、自分がどんな役割を果たすか」という視点に基づいていることがわかりますね。
ホグワーツ創設当初、戦いにつづく戦いのすえに、サラザール・スリザリンは学校を去ることになります。ですが、それでもスリザリン寮は廃止されることなく、ハリーの子供の世代になってもしっかり存続しています。その意味を改めて考えてみるのも面白いですね。
 
そして、これをベースに保守-外向的/革新-内向的など「それっぽい」性格をあてはめて出来上がった図がこちら。

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私はINTP、レイブンクロー寄りのグリフィンドールです。ですがこの表、どちらかというと本当にみるべきなのは自分の立ち位置より「対極に何があるか」なのかもしれないなと思います。自分を補ってくれるものを、漠然とした形であれ把握できるようになることで、生きやすくなるヒントが得られるのではないでしょうか。そんな実感を、作ってみて一年ほど経て思うのでした。
忘れられた巨人

忘れられた巨人

 

中世のブリテン島のお話ならぜひこちらも。