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魔女のブログ

『忘れられた巨人』を読みました。

今日の話題はカズオ・イシグロの新刊『忘れられた巨人』(原題:"The Buried Giant")です。ネタバレは極力避けつつの感想です。

カズオ・イシグロといえば現代劇を得意とする作家のようなイメージが先行しますが、本作はさにあらず。6~7世紀の中世初期のイングランドが舞台で、しかもドラゴンや魔法が何の説明もなく登場してきます。ジャンルとしては、ファンタジーに位置付けられるでしょう。 

忘れられた巨人

忘れられた巨人

 

 

しかし、作者が物語の主軸に置いているものは、いままでの作品と通底しています。「ジャンル小説」という枠組みを巧妙に利用しながら、きわめて現代的な心情をえぐりだし、美しい人間劇を紡ぎあげるという点は、近未来を舞台にしたSFの『わたしを離さないで』と共通しているでしょう。作者の特徴である細密な人間描写と、「終りゆくもの」への愛情あふれる態度は、今作ではさらに研ぎ澄まされています。

わたしを離さないで (ハヤカワepi文庫)

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とはいえ『忘れられた巨人』がファンタジーであることの意味は、決して軽いものではないと私は思っています。悪鬼やドラゴンが飛び出すブリテン島を包み込む、大きな秘密が明かされる終盤で、文章からは並々ならぬ気迫と、「この作品がファンタジーであること」に対する決意が漂ってくるのです。

それを論じる前に、ひとまずあらすじをご紹介しましょう。

 

あらすじ:

小さな村で若干疎外されながら暮らしている、アクセルとベアトリスの老夫婦は、長年会っていない息子に出会うため旅に出ることにする。荒野や森をいくつも越えるなかで、サクソン人の若き戦士や、アーサー王の命を受けて旅する老騎士、悪鬼にさらわれた奇妙な少年などに出会う。人々に会う中でふたりの持つ記憶はだんだんと揺らぎ、旅路は深い霧にかき乱される。はたして二人は息子のもとへたどり着けるのか?

老夫婦とともに時間を過ごす

旅と戦いが中心を占める壮大なストーリーですが、主人公の老夫婦を描く筆遣いはきわめて静謐で、淡々としています。小さな気遣いといさかい、そして助け合いを積み重ねながら旅を続けるふたりのこまやかな描写は、ミヒャエル・ハネケ監督の映画『愛、アムール』を思い出すものがありました。

 

愛、アムール [DVD]

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 とはいえ、人間存在につねに冷徹に向き合い、ある種突き放した態度を取り続けるハネケと異なり、イシグロの手触りは非常に優しいです(そうであるがゆえの残酷さも、一面では浮き上がってきますが……)。

また、物語の展開は非常にゆっくりとしています。重要な要素はすべて終盤になってから明かされる仕組みで、読者はかなり長い間老夫婦とともに世界を「迷う」ことになります。途中何度か主人公の時間と空間の感覚を「ずらす」ことで、私たちの視界をも霧の中に放り込んでしまう作者の手腕は流石といったところ。

原書発売からまだ三か月しか経っていないにもかかわらず、『忘れられた巨人』はすでに映画化が決まっているそうです。しかし、この作品は非常に贅沢な読書体験ができるのですが、反面映像化はかなり難しそう、と思ったりもしました。イシグロ作品原作の映画はどれも非常に上質な仕上がりですが、この作品の独特なテンポは、映像にするとちょっと眠いかもしれません。

『わたしを離さないで』映画版は、原作の文体と映像の撮り方が非常にマッチしていたことが印象に残っています。小説の中では歌詞が綴られるだけだった歌謡曲「わたしを離さないで(Never Let Me Go)」に伴奏と歌がついた瞬間には震えました。

ゆきてかえりし……?物語

さて『忘れられた巨人』は、アーサー王が存在していた(とされる)時代のイングランドを舞台にしています。物語の中では、ブリテン島に古来定住していたブリトン人と、大陸から入り込んできたサクソン人の民族対立も描かれます。戦いの行く末は物語では直接言及されませんが、歴史が雄弁に語っています。

主人公をはじめ、アーサー王の輝かしい威光のもとで、穴倉でひっそりと暮らすブリトン人は、実のところはじめから滅びの運命を背負っているのです。かれらブリトン人という民族が背負う悲哀と宿命が、荒涼としたブリテン島の地盤から滲み出す終盤の展開には、息をのまずにはいられません。

 

そして……こうした主題を、「歴史ものでなく、ファンタジー小説として描く」行為はどういう意味を持っているのでしょうか。そのことを考えるとき、イングランドはこの物語の舞台であると同時に、J.R.R.トールキンという巨人を生み出した土地であることも、思い出さずにはいられません。「ファンタジー小説」というジャンルがはっきり確立されるのに、イングランドという土地がもたらした影響は計り知れないものがあります。

ホビット〈上〉―ゆきてかえりし物語

ホビット〈上〉―ゆきてかえりし物語

 

ファンタジー小説というジャンルに身を置くこと」自体が「イングランドの歴史と精神性を描く」ことに密接に関わってくる。これは、『忘れられた巨人』を読み解くひとつの鍵ではないしょうか。

 

トールキンは『ゆきてかえりし物語』を描きましたが、『忘れられた巨人』でふらふらと彷徨を続ける老夫婦はどこへ「ゆき」、そしてどこへ「かえる」のでしょうか。

壊れ物を扱うようにそっと愛し合うふたりが、ともに歩む中で最後に選んだ答えは、ぜひ本で見届けていただきたいと思います。